145:沖縄その3「沖縄ノート」(陶酔人)100120

カテゴリー │本・歴史・人物・・

ノーベル賞作家の大江健三郎が40年前に書いた「沖縄ノート」(岩波新書)を読みました。大江氏は、平易な文章を難解な表現にして小説やエッセイを書くことで有名ですが、この「沖縄ノート」も同様です。
 145:沖縄その3「沖縄ノート」(陶酔人)100120
本の題名からはドキュメント風なイメージなのですが、実際は沖縄取材を中心に大江氏が考えたことに終始しています。本土側の新聞・報道に載りにくい沖縄での事実を万感の思いを込めて記しています。でも中心は、終戦後も継続して沖縄の犠牲(基地・地位協定・・)の上に繁栄してきた本土側の一人として、自分を責めても責めても開放されない自分自身を書いています。

「無論、沖縄の人々は、そんな中でもたくましく生活をしている」ようにツアー客の私には見えました。提供される芸能・土産物・飲食などから、氏とは全く別次元の「のほほんとした観光気分」の中で感じられました。

それでも氏の文章は、ツアーガイドさんの時折見せた「複雑な心境の吐露」を思い起こさずにはいられませんでした。

陶酔人

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「沖縄県人会事務局長の急死」を発端として、「ニクソン・佐藤会談」「渡嘉敷島での集団自決事件」等々を取り扱い・・・どの題材も難題なのですが、本土側の良心として、決して目をそらしてはならないと訴えています。そして、40年前35才であった氏が本土人として、沖縄に顔を向けられるかという自身への問いに終始しています。

さらに、こんな「言葉」を引用して自分を責め続けてもいるようなのです。「実際はなにも悪いことをしていないときに、あえて罪責を感じるということは、その人間に満足をあたえる。」 それは、決して自己満足に陥らないようにと自分を叱咤激励しているようなのです。なんとも、意味深な言葉ですね。

学生時代に難解な文章を嗜好して、意味も理解できないまま氏の小説・エッセイを読んでいたのですが、社会人となり、難解な文章に音を上げ、遠ざかっていました。今回、沖縄に行かなかったら多分本書は読まなかったのではないかと思うのです。

氏の文体は「・・善き意志から発したにしても悪しき意思にもとづくにしても一つの共同体の把握において単純化は、最悪のことだ・・」といった具合で、「・・善きにつけ悪しきにつけ一つの共同体を単純に把握してはいけない・・」とでも書けばわかりよいですのにね。

ノーベル賞受賞スピーチの「あいまいな日本の私」が新聞に載ったときに、「あいまい」どころか文体は「平易」で「読み易い」ので唖然としたことを思い出します。その時に初めて氏が小説・エッセーをわざと難解に書いていることを知ったわけです。それ以来、氏の文章を狙っていたのですが、偶然の重なりから、本書に出くわし、眠気眼をこすりながらなんとか読了して、これを書きました。
最期まで読んでいただいて恐縮です。

陶酔人



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